文章を書くということ

文章を書くことは現代人に必要ないかもしれない。

なぜなら読書できる現代人が少ないからだ。

 

私は読書が苦手である。

そもそも、そんなに膨大にインプットしたところで、自分のアウトプットが追いつかない。

 

私は化学者なので専門書1ページを理解するのに30分以上かけたりする。

もちろん、ひらたく読むだけであれば5分で良いが、そんな楽して得た知識は役に立たない。

そもそも、読書は刺激にすぎない。自分の脳内空間を豊かにするための触媒でしかない。

なので、そんな小説だとか中身のない文章を読んでも自分の人生は豊かにならない。

 

ちょっとしたきっかけが活字には求められる。

心身ともに健康でいたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

自転車の傘さし運転は本当に悪か

なぜ自転車の傘さし運転が悪いかというと、

傘を片手に持つから、ハンドル操作を片手で行わなければならないからです。

それでは、傘を自転車に固定できるようにすれば、比較的安全ということはないでしょうか。

 

・視界が遮られるリスク

普通に傘をさす分には大丈夫ですが、どうしてもスピードが出る自転車だと雨を避けるには傘を前目にさしたほうが水を避けられます。それだと視界が遮られるリスクが高いですね。あとビニール傘が前提というのもあります。

でも合羽のフードでもかなり視界は遮られるんですけど。

 

・風に煽られるリスク

これは怖いかもしれない。風が弱いときならいいかというと、ビル風とかで不意に強風が来る可能性はあって、こわい。自転車に傘を固定すると風の影響が強くなるだろう。

 

 

視界のリスクは視界を遮らないように傘をさせばよいだけですが、

風のリスクは怖いですね。。こっちが傘さし運転が悪である本質でしょう。

 

 

太陽光の雲による減衰率は朝と昼では違う

太陽光の雲による減衰率が朝と昼では違うからということに気づいた。

 

曇り空の朝は妙に暗い。晴れの日でもそりゃ昼のほうが明るいんだろうけど、別に朝が暗いなどとはほとんど感じない。

 

地表に対してほぼ平行に、ほぼ同じ厚さで雲があると考えると、太陽光が雲に対して斜めに入射すればそれだけ太陽光の雲の中の経路が長くなり、経路長に比例して減衰する。

昼であれば雲の層に対してより垂直に近く入射するので、曇りの日でも空は明るくなる。

 

 

不均衡、勘違い

ナッシュ均衡とかいうけど、ただの勘違いでは。

 

化学の準安定状態と何が違うのか。照らし合わせて考えよう。

 

準安定状態の代表例はダイヤモンドと水ガラスである。

そもそも黒鉛のほうが安定という事実を認めてくれる人がいなさそうなのだが。

水ガラスは不安定で、安定なのは粘土鉱物だ。

ただ我々の日常では、これらが安定状態への変化することはない。面倒だからだ。

 

人間もまた変化が怖くて、変化はエネルギー的に不利だから保守派となり、理想にはほど遠い地点でとどまってしまう。

経路依存性という言葉と深く関係していて、今までの経緯があるから今更大幅路線変更なんてできるわけがないという論理のもと、最適地点には永遠に辿りつけない。全てのプロジェクトがそうなのではないだろうか。

 

変化が怖いというのはまず本当なのか。変化したその先を想像できないからではないか。

また、仮に変化後のほうが効果的だと知ってもなお、それを不合理と思うのではないか。

 

ナッシュ均衡の本質は同調圧力と怠惰と愚鈍だ。

人と同じ、ということだけで人間社会ではエネルギー的には有利だ。何も考えずとも人真似だけで生きていけるのだから。

怠惰もそうで、理由なしに人間であれどギブズエネルギー的に不利な行動はできない。

そして、その理由を本当に見いだせない人間の愚かさがある。

 

ナッシュ均衡を化学と同じにしてよいのだろうか。

同調圧力というのは結合に相当するか。人と違うことをするのは結合を切ることにある。また、結合を切っただけではすぐにまたくっついてしまうから、結合を再構築できないほど愚鈍対象との距離を取る必要がある。気化のようなものだ。実際には液化くらいでとどまってしまうかもしれないけれど。

怠惰とは、ギブズエネルギー変化に相当する。人間はとにかく、無理なことはできない。その気になればできるとはいうけれど嫌な事はせいぜい3日坊主で終わるから、長期的な目線でギブズエネルギー変化が負でなければ無視してよいだろう。

 

愚鈍、これは化学と異なるかもしれない。ギブズエネルギー変化は人によって、また頭脳によっても変わりうる。あくまで見積もりしかできないのだが、その見積もりすら取れない人間が多い。

 

見た目は美しいだけでたいした利用価値がないエネルギー的に不安定なダイヤモンドではなく、幅広く世の中の役に立っているエネルギー的に安定な黒鉛のほうを大切にしたほうがいいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

人格の整理

自分の話で恐縮ですが、まぁ誰でもそうだと思う。

いくつかの人格を飼っているようなので、それらを整理したい。

 

①やたらお喋り

10歳くらいまでの幼少期に発現していた。人間関係の煩わしさを覚えてからはあまり登場しないようになった。

でも最近でもお酒を飲むと稀に発現するかも。

 

②自己犠牲の塊でやたら優しい

この人格はまぁある。聞き下手だから、優しくするくらいでしか他人に貢献できないんだと思うね。

生放送をしてたときなんか典型。自己犠牲っていうと大げさなんだけど、でもそれ以上に他人とコミュニケーションをとること、人に好かれることを求めているということ。

ずっとこの子ばかりに頼ると3ヶ月くらいで疲れてしまう。昔の彼女との関係も総じてこの程度だった。

でも今でもこの人格にはお世話になる。自分のなかでは数少ない外交的な子だからだ。

 

③なんかストイック、ゲームのランカーみたいな

この人格は研究室時代の、それも初期だろうか。学部生のころにも芽はあったかもしれない。

とにかくストイックで、議論好きで (でもディベート寄り)、疲れ知らずだ。

ただ頭のどこかが働いていないような感覚もある。

行動力の塊なので、まぁほどほどにお世話になりたいところ。

ただ他人と仲良くするのが好きではないらしく、無意識に人を見下す癖がある。この辺が仕事と相性が悪い。

最近、6時半~20時の仕事をしたときなんか典型なのだけど、この人格が発現してびっくりした。しかも今までになく強かった。

ただその週は毎日一回誰かにキレるという素行もあり、ちょっとやばいなと思ったのも覚えている。

その週の休日にこの人格を眠らせるためにめちゃくちゃ苦労した。

 

④反抗期?ニート

私はどうも反抗期がないか、無限に反抗期のようだ。親との会話ができない。

家では言葉を発したら負けだと思っている。

いい親に育てられたのにもったいないね。

たしかにしつけが厳しかったり、ゲーム禁止のせいで学校でいじめられたり友達失ったけれど。

ただ私はコミュニケーションが最も適性なかったから、だからこそ人との繋がりは大事にしなくてはならなかったわけで、その点でゲーム禁止にしたのはまずかったね。残念。

困るのがどうも、外でもこの人格が現れることがあるらしい。

研究室時代がそうだったかもしれない。どうしようもなく憎い存在がいると、一切合切コミュニケーションをとろうとしなくなってしまうのだ。

 

⑤学者

③とは違うよ。これは勉強をめっちゃできるときの人格。

勉強自体は3時間くらいしか集中力持たないんじゃないかなぁ。でも普通に一日5時間以上は勉強してたよね私。桂ヒナギクが毎日5時間勉強してるわよって言ってても何も思わなかったもん。

難点は、どうも勉強モードの日だと人との会話がほとんどできない。人の発言を無意識に分析してしまい、適当な発言ができなくなる、のだろうか。

人とのコミュニケーションなんて頭が働いていない時のほうがむしろ楽なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる意味とは

生きててもつまらなくなってきました。アラサーです。

 

私のケースでは仕事はおおむね満足です。好きな仕事に就けました。楽しいというもんじゃないかもしれないけれど、ただ仕事に打ち込んだ日は特別な充実感がある。

 

一番生き甲斐を感じるのは6時半~20時までノンストップで働けた日。

覚醒するとそれでも全く疲労は感じない。人間はすごいものだ。

 

んでそんな私が、このゴールデンウィークで暇すぎて死にたくなっている。

 

仕事をし続けるしか私には生き甲斐はないというのか。そんなことはないはずだ。

 

大学生のころはほとんどニートのような生活をしていたなぁ。小中学校の頃はまだ楽しかったけど、高校生のとき人間関係の絶望、人とのコミュニケーションに時間を費やすことの無為さに気づかされ、大学では相当ぼっち寄りの生活をした。

 

でも学生の頃、特に座学メインの頃はまだよかったなぁ。なぜならありとあらゆる知識は今後生きる可能性があったからだ。将来が不確定だからこそ、どんなことにも勉強する価値を見出せた。

 

今はそうではない。将来どんな事が起こるかだいたいわかっている。第一、今現在目の前にある問題すら今の私にはどうにもできていないし、今まで頑張って勉強してきた知識が全然役に立たない現実に直面している。

なにか新しいことを勉強しようかな、と思っても、それ本当にやる価値あるんですか?どんな具体的な目的をもって勉強するんですか?という事を即座に自問自答してしまい、やる気がなくなってしまう。

かなしい。昔の自分が大学教授になることが夢だったから、どんな知識でも不要なものはないはずだ、ということで勉強、というか熟考にいそしめたというのに。

 

どんな論理でもいいから、現在の私にも勉強する悦びが欲しい。

頭ではわかっている。今からでも決して遅くはない。直接仕事に役立つような学問はもうないかもしれないけれど、どんなことであっても学ぶのに遅すぎることはない。

頭を使い続けるというのがもっとも重要なのだ。本というのは頭を働かせるための触媒にすぎない。

 

今までアウトプットを全然しなかったからさ、こういうブログで、少しでも思考整理できたらいいな。

他にもブログもってたんだけど、妙に人気になってしまい人目を気にするようになってしまったため、引っ越してきた。

私は田舎のほうが好きなのだ。

 

前の記事に書いたように、我々は立体の素性を言語によって説明する際、断面図を使って説明せざるをえない。その際、今の自分にとって都合のよい断面を用いることになるだろう。

でもその断面の取り方は他人はおろか、明日の自分にとっても正しいかどうかはわからない。

というか何が正しいとか、間違っているということはなく、その断面がその瞬間にどれほどの価値があったか、ということです。

物事を理解するにはいろいろな方向から説明するのが望ましいから、別の日には違う断面から説明することになるだろう。その時に、文章を注意深く読まないと先日の説明と矛盾してるような感覚に陥る。

その感覚に対して手のひらクルーだとか言われてしまうし、主張が一貫していないように思われて信頼を失う。

私は言語とはその程度の存在と思っていて、立体を多面的に説明しようとするとちょっとした齟齬や説明不足で矛盾をきたし、付け入られるスキを人に与えてしまう。

で、そんなスキに付け入ろうとする人が潜在的に多すぎて、人付き合いはそれがめんどい。仲悪かったら本気で批判されるだろうし、仲よかったら目を瞑ってくれるだろうけれどその空気感がストレスだ。

 

数学ならまた別なのだろうか。球体のような簡単な立体なら一行で述べることができる。4次元以上の空間についても記述はできる。数学でコミュニケーションできたらいいね。法律では一次関数すら使えないから、不連続点でいつも闘争が起きる。

 

私はどうも生きる価値を自己研鑽だとか、物事の本質追究というところに求めているようですね。

いかに人間関係が希薄な環境で育ったかが分かります。

就職がうまくいって、満足する仕事に就けたくせに、ここまで悲壮感に浸っている。

僕みたいな人生を歩まないように気をつけてくださいね。

 

陽キャが正義なのかもしれない。普通の陽キャではろくな仕事につけないから悩まされてばかりだろう。でも陰キャの状態で就職してその後で陽キャに転換すれば、それならまだ希望があるかもしれない。