批判するということ
万人共通の問題だと思いますが、批判とはどうあるべきかなぁなどと考える年頃になりました。
職場で気に食わない物事に出くわすと、我慢しとけばいいのか、直球で反論すればいいのか、その場は引いておいて批判対象の外堀を埋めることから始めればいいのか。迷うんですよね。
我慢したらストレスになります。ストレスは危険で、一人で抱え込んではいけません。説明を省きますが、ストレスは人命を奪いかねません。
反論すればいいのでしょうか。反論するだけの材料は手元に揃っているんでしょうか。そもそも批判対象は貴方の言い分を聞くだけの能力や心の余裕があるのでしょうか。それだけではなくて、仮に反論がうまくいっても相手は納得してくれるんでしょうか。今後、その相手との良好な関係を維持していくことはできるんでしょうか。
さらにその上で批判がうまくいったとしても、想像以上に周囲に気を遣わせるんですね。
組織を引き締めるという意味ではいいかもしれませんが、批判の目が増えることで同僚にとってはストレスになるかもしれません。
自分がめんどくさい人というレッテルを貼られて話しかけてくる人が減るかもしれません。
批判した後はスカっとしても、結局自分にとってもはストレスとなるんですよね。現実を正すために声上げる事は実は命を削るようなものです。
また、正論をぶつけるのは、もしかしたら避けるべきことなのかもしれない。
ホワイト企業が正義、家族が第一、つったって仕事で結果を出せなければ給料をもらうに値しない。
効率を上げて定時で帰れるようにしよう、つったってそんなに効率的に仕事を取り組めるなら残業の効率も良い筈だ。
また、家族が第一というなら独身はどうなるのか。独身はホワイト企業の理念を享受するに値しないのではないか。とか
コロナウィルスで自粛が正義だとしても、経済活動を止めてはならない。
なぜなら経済活動は生きるために行っているからです。
もともと人の命というのは、その程度のものなのです。
年々、交通事故で多くの人が亡くなっているからといって車を廃止するわけにはいかない。これも経済活動ですね。
未来の子どもたちために~というのも同上ですね。もちろん説得文句としては強いけれども、それでなんでもかんでもマウントを取れるわけではないです。
正論をぶつけるのはよくない、というよりは正論だと思われているものは実は正しくなんてまったくない、といったほうがよさそうです。
ツイッターでも批判に目を背け脳天気なツイートばかり呟いたりファボったりすればいいのか、逆にネットだからこそどんどん批判をし本質追求に勤しめばいいのか。
前者は賢者も愚者も安定して評価されるので無難です。
後者の批判は的を間違えたり、そもそも当事者に論理的思考能力がなければ大惨事になる。
どっちつかずのスタイル、ここぞというときだけ声を上げるタイプの人が多く、まぁ何事もバランスなのでしょうね。
どんなことにもメリットとデメリットがあるわけで、
何かを批判するということは今後常に逆サイドから揚げ足を取られる事に怯えながら生きていかなくてはならないわけで、
まぁそうまでして批判したいかなぁという。
読書もあまり好きではないんですよね。というかもともと得意じゃないのだけど。
読書せずに生きる能力を検討したらこうなった、のかもしれない。
全ての文にたいして「本当にそうなんですか?」を突きつけないと気が済まない。で、その体力はない。もしある文が自分には納得できず、もう読まなくていいやってなる。
これは余談ですが、大学受験で「化学の新研究」という本に出会い、これは本当に一文一文「本当にそうなんですか?」に答えてくれる本でした。高校化学は暗記要素が多いとされ化学嫌いを量産してしまってる気がしますが、この本はそんな人を救うものです。正直詳しすぎて受験に役に立つかは不明ですが、この本のおかげで化学の道に進んで今の自分がいます。
ストーリーにごまかされて理解した気にさせられる、というのは一番避けたい。
立体の中身を説明するには断面をとらなければなりません。
文章では線でしか説明できないとも思ってる。
でも立体を断面や線を使って説明するのでは、いつまで経っても理解度には限界があります。
たとえば地球は地殻・マントル・内核・外核で、まぁそれさえ覚えていれば十分かもしれないけれど、
人体ならそうはいかない。三次元的に人体を理解していなければ手術はできない。
正しく批判ができたとしても沼なのだから、なおのこと嘘の批判で溢れるSNS等は闇ですね。それなら何も声をあげないほうがましです。無関心のほうがよほど害が少ないです。