生きる意味とは

生きててもつまらなくなってきました。アラサーです。

 

私のケースでは仕事はおおむね満足です。好きな仕事に就けました。楽しいというもんじゃないかもしれないけれど、ただ仕事に打ち込んだ日は特別な充実感がある。

 

一番生き甲斐を感じるのは6時半~20時までノンストップで働けた日。

覚醒するとそれでも全く疲労は感じない。人間はすごいものだ。

 

んでそんな私が、このゴールデンウィークで暇すぎて死にたくなっている。

 

仕事をし続けるしか私には生き甲斐はないというのか。そんなことはないはずだ。

 

大学生のころはほとんどニートのような生活をしていたなぁ。小中学校の頃はまだ楽しかったけど、高校生のとき人間関係の絶望、人とのコミュニケーションに時間を費やすことの無為さに気づかされ、大学では相当ぼっち寄りの生活をした。

 

でも学生の頃、特に座学メインの頃はまだよかったなぁ。なぜならありとあらゆる知識は今後生きる可能性があったからだ。将来が不確定だからこそ、どんなことにも勉強する価値を見出せた。

 

今はそうではない。将来どんな事が起こるかだいたいわかっている。第一、今現在目の前にある問題すら今の私にはどうにもできていないし、今まで頑張って勉強してきた知識が全然役に立たない現実に直面している。

なにか新しいことを勉強しようかな、と思っても、それ本当にやる価値あるんですか?どんな具体的な目的をもって勉強するんですか?という事を即座に自問自答してしまい、やる気がなくなってしまう。

かなしい。昔の自分が大学教授になることが夢だったから、どんな知識でも不要なものはないはずだ、ということで勉強、というか熟考にいそしめたというのに。

 

どんな論理でもいいから、現在の私にも勉強する悦びが欲しい。

頭ではわかっている。今からでも決して遅くはない。直接仕事に役立つような学問はもうないかもしれないけれど、どんなことであっても学ぶのに遅すぎることはない。

頭を使い続けるというのがもっとも重要なのだ。本というのは頭を働かせるための触媒にすぎない。

 

今までアウトプットを全然しなかったからさ、こういうブログで、少しでも思考整理できたらいいな。

他にもブログもってたんだけど、妙に人気になってしまい人目を気にするようになってしまったため、引っ越してきた。

私は田舎のほうが好きなのだ。

 

前の記事に書いたように、我々は立体の素性を言語によって説明する際、断面図を使って説明せざるをえない。その際、今の自分にとって都合のよい断面を用いることになるだろう。

でもその断面の取り方は他人はおろか、明日の自分にとっても正しいかどうかはわからない。

というか何が正しいとか、間違っているということはなく、その断面がその瞬間にどれほどの価値があったか、ということです。

物事を理解するにはいろいろな方向から説明するのが望ましいから、別の日には違う断面から説明することになるだろう。その時に、文章を注意深く読まないと先日の説明と矛盾してるような感覚に陥る。

その感覚に対して手のひらクルーだとか言われてしまうし、主張が一貫していないように思われて信頼を失う。

私は言語とはその程度の存在と思っていて、立体を多面的に説明しようとするとちょっとした齟齬や説明不足で矛盾をきたし、付け入られるスキを人に与えてしまう。

で、そんなスキに付け入ろうとする人が潜在的に多すぎて、人付き合いはそれがめんどい。仲悪かったら本気で批判されるだろうし、仲よかったら目を瞑ってくれるだろうけれどその空気感がストレスだ。

 

数学ならまた別なのだろうか。球体のような簡単な立体なら一行で述べることができる。4次元以上の空間についても記述はできる。数学でコミュニケーションできたらいいね。法律では一次関数すら使えないから、不連続点でいつも闘争が起きる。

 

私はどうも生きる価値を自己研鑽だとか、物事の本質追究というところに求めているようですね。

いかに人間関係が希薄な環境で育ったかが分かります。

就職がうまくいって、満足する仕事に就けたくせに、ここまで悲壮感に浸っている。

僕みたいな人生を歩まないように気をつけてくださいね。

 

陽キャが正義なのかもしれない。普通の陽キャではろくな仕事につけないから悩まされてばかりだろう。でも陰キャの状態で就職してその後で陽キャに転換すれば、それならまだ希望があるかもしれない。